【ロッキード事件】77-参-ロッキード問題に関する…-閉20号

日本政治

77-参-ロッキード問題に関する…-閉20号

1976年8月4日

神谷信之助

認識なしとおっしゃいますが、しかし児玉と中曽根が深いつながりがあったということは、たとえば六六年に河野一郎さんが亡くなったときに、児玉は、河野の跡を継ぐのは中曽根だと称賛をしている。これは児玉自身の著書にも書いています。それから六九年に自民党の中では最も期待できる人物、それは中曽根だと、これも書いている。だから、非常に秘書を預かり、教育をするという関係、あるいは児玉と中曽根は、中曽根さんを児玉が称賛をする、そういう近い、親密な関係であったということは児玉自身の著書を見ても明らかであります。これはいま二カ所ほど引用しましたが、そのことを児玉自身が自分みずから著書でも明らかにしております。


 そういう児玉がロッキード社からお金をもらって売り込みの仕事をやるという契約を結んでいる。そうして十月九日という重要な決定がなされる、そういう時期に、中曽根さんに児玉が工作をしないというようなことはあり得ない。そう考える方がおかしいと言わざるを得ないと思うのです。したがって、先ほど申し上げましたが、児玉が十月の五日に有力な政治家に工作をした、こういう、これは非常に確度の高い情報であります。しかもその政治家というのは経済関係の閣僚である。中曽根さんも当時通産大臣である。そして検察庁のアメリカに送っている嘱託尋問の項目の中には、
四十七年の十月に児玉が中曽根宅を訪問をしているというこの事実もすでにつかんでおられるようである。


 これらを考えますと、中曽根氏に対する疑惑、これもまた非常に大きいと言わざるを得ません。私は今後ともこの問題はさらに追及をしていくつもりでありますが、この疑惑を明らかにするということが必要であるというように考えております。


 そこでもう時間がありませんから急ぎますが、四十七年の秋、ロッキード社の対日工作ですね、これはハイライトになってきています。すでに明らかなように、コーチャンは十一週間この期間に滞日をする。そしてその間に九月三十日にはトライスターが決定をする。十月九日には白紙還元をし、そしてP3Cの売り込みが決まる。十一月一日には丸紅とロッキード社の契約が成立をする。そして十一月三日に意気揚々とコーチャンはアメリカに帰る。このとき児玉も重要な役割りを果たしていたことは疑いないわけであります。


 そこで
児玉の政治団体、これ交風倶楽部といいますが、これを調べてみますと、これは昭和四十年の十一月一日に結成をして銀座の塚本総業ビルの中に事務所を置いています。代表世話人は亜細亜大学総長の太田耕造氏。この太田氏と安部源基氏、安岡正篤氏、これらが三長老と言われている。およそ二十人の同人がいるわけなんですが、その中の一人には例の福島県の汚職によって逮捕されております東亜相互企業社長の町井久之あるいは総会屋の藤吉男、あるいは同じくこれは亡くなりましたが永光伝、まあこういった方々が顔を並べている。この交風倶楽部は児玉の政治活動の参謀本部で、そして実戦部隊は青思会加盟の三十団体であると言われているわけですが、四十九年の九月の十三日に児玉が脳血栓で倒れるまで大体月一回定例会を開いていた。そういう政治団体であります。
 そこで自治省にお尋ねいたしますが、この交風倶楽部に小佐野賢治氏が関係をする日本電建と国際興業が四十三年から五十年にかけて政治献金を行っていますが、これについて報告していただきたいと思います。

藤吉男、笹川良一、若狭得治、永野重雄、鹿内信隆→(財)競艇記念顕彰会

藤吉男の選挙立候補の手伝い・秘書→池田大作

藤吉男、笹川良一→【wiki拾い読み】ベニート・ムッソリーニ

ムッソリーニ敬愛繋がり→GHQ・G2ウィロビー、笹川良一

塚本総業→塚本素山→創価学会 初代顧問

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