■星新一–wikiより
1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐも当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。会社を他人に譲るまでその処理に追われたという。星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられているほか、『星新一 一〇〇一話をつくった人』においてその詳細が記されている。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。
星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月十万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。 1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊。第2号に発表した『セキストラ』が当時江戸川乱歩の担当編集だった大下宇陀児に注目され、「宝石」に転載されてデビューした。 |
■大下宇陀児–wikiより
大下 宇陀児(おおした うだる、1896年11月15日 – 1966年8月11日)は日本の探偵小説作家。別名、XYZ。長野県上伊那郡箕輪町に生まれる。本名、木下龍夫。九州帝国大学(現在の九州大学)工学部応用化学科を卒業後、農商務省臨時窒素研究所に勤務。文壇における、同僚の甲賀三郎の活躍に触発されて小説を書き始めた。
1925年、『金口の巻煙草』でデビュー。『新青年』を舞台に、江戸川乱歩や夢野久作と並ぶ探偵小説の人気作家として活躍。戦後は、NHKの人気ラジオ番組『二十の扉』の解答者として人気を博した。 1951年、『石の下の記録』で第4回探偵作家クラブ賞を受賞。探偵小説だけでなくSF小説にも関心を示し、「空中国の大犯罪」や『ニッポン遺跡』といった作品を執筆し、星新一の才能を見出した。 |
■出澤三太–wikiより
出澤 三太(でざわ さんた、1917年12月25日 – 1985年5月17日)は俳人。筆名は出澤珊太郎。作家星新一の異母兄。星一の庶子として東京市芝区琴平町(現在の東京都港区虎の門1丁目)に生まれ、長野県北佐久郡の出澤夫妻の息子として入籍され、生後まもなく六本木の医師の家庭に預けられて育つ。 …… 敗戦に伴い1945年9月に召集を解除されて復員。星一により星食糧品株式会社の経営を任され、同社の経営を軌道に乗せる。1948年9月、星製薬に取締役として迎えられたが、詐欺に遭って星食糧品株式会社を手放すことを余儀なくされ、1949年12月には星製薬取締役の役職からも退任し、以後二度と星製薬とは関係を持たなかった。出澤の後任として星製薬取締役営業部長に就任したのが星新一だった。 その後、警察予備隊勤務を経て川崎市で星製作所を設立。日立製作所の下請けとしてマイクロスイッチの部品を製作していたが倒産し、東京渋谷で俳句雑誌などを刊行する出版社「星書房」と不動産会社を設立した。 俳人としては中村草田男の句誌『萬緑』(ばんりょく)の創刊を助けた他、水戸高の1学年下に在籍していた親友金子兜太たちと同人俳誌『青銅』を発刊。1962年4月、金子の創刊した『海程』に発行人として参加。晩年は『すずかけ』の主宰者として活動した。 碁を趣味とし、異母弟星新一と碁を打つこともあった。 長男の出澤研太は、日本アイ・ビー・エム株式会社執行役員。 |
■出澤研太氏経歴
昭和48年 (1973年) システム・エンジニアとして日本IBM株式会社入社その後営業部門にて営業部員、営業課長、本社戦略担当等を歴任
平成元年 (1989年) 椎名社長補佐
平成5年 (1993年) 米国IBM勤務、コーポレート・ストラテジー、RS/6000 Div. 社長補佐
平成6年 (1994年) 理事 RS/6000製品事業部長
平成11年 (1999年) IBM Global Services -AP バイス・プレジデント
平成12年 (2000年) 取締役 インテグレーテッド・テクノロジー・サービス事業部長
平成15年 (2003年) 執行役員 金融第一事業部長
平成17年 (2005年) 執行役員 システム製品事業担当
平成18年 (2006年) 常務執行役員 経営イノベーション担当
平成22年 (2010年) 退任、常務顧問