表舞台裏舞台〜福本邦雄回顧録、閨閥:小林家(富国生命)とあわせてご一読あれ。
「軍隊なき占領〜ウォール街が「戦後」を演出した」G・デイビス/J・ロバーツ著77Pより
カーンが最高位の外交官たちやスパイマスターと接触していたことから見て、カーンとそのACJの仲間は、ウォール街の後援者や顧客の利益のために働くだけでなく、ある種の陰の役割も演じていたのではないかと疑われてもやむをえまい。この問題にかんしては、ジョセフ・ドッジの要請で1947年に設立された「米国援助物資見返り資金特別勘定」は示唆に満ちている。1951年、その資金は、日本の産業復興を調達するために新設された日本開発銀行(JDB)に投じられた。資本不足の日本で、銀行とその豊富な資金の管理をするという仕事は途方もない権力をもたらした。しかし、同行頭取に任命された小林中は、帝人事件(帝国人絹の株買い占めにより政府がだまされた戦前の疑獄事件)の被告のひとりという以外は比較的無名だった。
ではなぜ、著名な銀行家でもない小林がその任務に就いたのか。実はこういういきさつが伝えられている。友人の白洲次郎が彼を共通の友人である池田勇人に推薦し、池田は彼を師である吉田茂に推薦した。白洲と吉田は、ACJ共同会長のグルーと古くからつきあいがあり、吉田と池田はすでにカーン、ドレイパーらのACJの活動家と親交があった。吉田はそれまで小林のことを知らなかったため、アドバイザーの向井忠晴(三井物産の取締役で、のちに常務・会長を歴任)に照会した。スタンダード石油グループ傘下のカウフマンの顧客のためにきわめて重要な業務を行なっていた向井は、小林を認め、即、採用されることになった、というわけである。
この話があまりにも短絡的だというならば、別の見方をしてみよう。小林は豊田貞次郎海軍大将と親戚関係にあったが、その豊田は外務大臣として、戦前、グルー大使と親交があり、その後も日本にかんする諸問題についてグルーに助言しつづけてきた。また、小林のもうひとりの親戚に渡辺銕蔵がいた。超国家主義者のリーダーの渡辺は、ウィロビーの参謀第二部のもとで活動していた反共スパイ機関、服部機関に積極的に協力していたために見込まれ、特別扱いを受けていた。
要するに、小林は日本開発銀行の頭取に据えられてから、民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守派政治家にたいする献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになったわけである。
「五年以上におよぶ在職期間中に小林がふるった権力は、日本銀行頭取のそれを凌ぐものであった」
とイェール大学の弥永教授はその著書に記している。小林と仲間の極端に親米派の財界指導者たちは、吉田内閣の存続に際して、吉田退陣に際して、そしてまた吉田の後継者輩出にあたって、決定的な影響力をふるったとみなされた。そうしたのちの指導者のほとんどが、権力者の座に就くまえにジャパン・ロビーと密接な関係をもっていた。
■考察
白洲次郎の閨閥→松方正義→国際金融勢力
この辺りにルーツがありそうですね。