16時30分 谷中の全生庵 で山本有二衆院議員と座禅。
■考察
山本有二 | 弁護士(渥美坂井法律事務所・外国法共同事業) (株)システム収納センター 代表取締役 (株)日本情報調査 代表取締役 地下式原子力発電所政策推進議員連盟 顧問 (社)原子燃料政策研究会 理事 ムサシからのハココネ参照 |
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全生庵〜wiki
近隣情報
谷中墓地 – 徳川慶喜の墓がある。
田中清玄〜wiki
田中清玄(たなか きよはる、明治39年(1906年)3月5日 – 平成5年(1993年)12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIAエージェント、フィクサーともいわれる。
龍沢寺と終戦工作
1941年4月29日、10年1ヶ月の刑期を終え出所。身元引受け人は内務省警保局長富田健治。田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に三島の龍沢寺の山本玄峰を訪ね、「自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ。五・一五事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所で田中に法話をしていた。田中に山本を紹介したのは血盟団事件に連座した四元義隆だった。ほか、龍沢寺には、鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄ら多くの人士が出入りし、多くが軍部を批判していたという。また玄峰は谷中の全生庵でも法話を行い、三井の池田成彬や侍従の入江相政らも訪れた。迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。田中は玄峰の秘書・用心棒を勤めた。