24-衆-予算委員会-16号の考察

日本政治

24-衆-予算委員会-16号 を考察。

登場する塚本少佐は、塚本素山のようですが、では杉山憲兵少佐とは誰なのでしょうか?

杉山龍丸〜wiki
杉山龍丸(すぎやま たつまる、1919年(大正8年)5月26日 – 1987年(昭和62年)9月20日)は、日本の陸軍軍人。インドの緑の父(Green Father)と呼ばれる人物である。

福岡県福岡市出身。祖父は政財界のフィクサーともいわれた杉山茂丸父は作家の夢野久作である。弟は詩人の杉山参緑。1937年(昭和12年)福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1940年(昭和15年)陸軍士官学校(53期)を卒業し、ボルネオでは胸部貫通銃創の重傷を負う。 陸軍少佐で終戦を迎える
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成長が早く根が深くパルプの原料となる
ユーカリを植林し、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて水を確保することを提案した。

陸軍士官学校本科以降〜wiki
47期(昭和8年(1933年)4月入校、昭和10年(1935年)6月卒業、330名)
満州国元首の弟・醇親王継嗣:愛新覚羅溥傑
少佐:石原貞吉(公務死)・上妻正康・小林友一・山口立・塚本清・野中国男(自決)・井川省(1946年インドシナ戦争で戦死)
少尉:池田俊彦・林八郎・常盤稔・鈴木金次郎・清原康平

塚本清→塚本素山
小林友一→1954年、偕行社理事長

53期(1940年2月卒業1365名)
少佐:赤松嘉次(渡嘉敷島守備隊長)・飯村繁・杉山龍丸・橋本賢次・土生洋平・申應均(平山勝敏)・奥山道郎・奥田鑛一郎・亀岡高夫・石井卓雄(ベトナム独立戦争で戦死)
大尉:三好秀男

亀岡高夫→自民党前衆議院議員亀岡偉民は養子

杉山茂丸〜wiki
杉山茂丸(すぎやま しげまる、元治元年8月15日(1864年9月15日) – 昭和10年(1935年)7月19日)は、明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。実は戦国大名龍造寺隆信の末裔である。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。
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玄洋社時代
伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、各地を転々としていたが、明治18年(1885年)、熊本県人八重野範三郎の紹介により同郷の
頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。
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日本興業銀行の設立運動
明治27年(1894年)、杉山は同郷の先輩である金子堅太郎農商務省次官の知遇を得て、経済政策を語り合うようになった。またこの前後、東京日日新聞主筆の朝比奈知泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文、桂太郎、児玉源太郎、
後藤新平と人脈を広げた。杉山は金子と協力して工業資本の供給を行う興業銀行設立運動を始め、朝比奈は金子や杉山の動静を東京日日新聞で報道して世論形成に一役買った。杉山は明治30年(1897年)年に初めて渡米し、アメリカの工業事情を視察すると、翌明治31年(1898年)にも渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した

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