24-衆-予算委員会-16号
1956年5月31日
今澄委員 そこで私は、先ほど問題のありましたフィリピンの賠償に関する綱紀粛正についての質問をいたしたいと思います。
フィリピンの賠償工作のために、昨年九月ラウレル・フィリピン特使が日本へ見えました際、鳩山総理に会われて、ラウレル・フィリピン特使から、かつて日
本軍がフィリピンから略奪したと伝えられるダイヤ、貴金属について、その後の日本国内における処置等について話がありましたかどうですか。鳩山さんにお伺
いをいたします。
鳩山国務大臣 私にですか。――何という人でしたか。
今澄委員 ラウレル。
鳩山国務大臣 そういう話、一向知りません。
今澄委員 私はこの賠償というのは、国民の税負担にかかるものであるから重要であって、この際明らかにしておきたいと思う。昨年の八月、日本に寄ったフィリピンの検事総長も、非公式に見解を漏らしたと伝えられるが、私はこの問題が、今度の賠償で四億ドルから五億五千万ドルに日本が譲歩しなければならなかった非常に重大な要素であると見ておるのです。この事件は、米軍マレー大佐が日本からアメリカへダイヤを持参、横浜の軍事裁判にもかかっておって、その他にも多数の人が関連をしております。終戦前、昭和十八年葉月、フィリピン軍政部付の杉山憲兵少佐と司令部の副官塚本少佐が、ひそかにフィリピンから東京に空輸、終戦直前まで田中東部軍司令官の隷下に管理されていたものが、その一部を古荘四郎彦氏の自宅倉庫に終戦と同時に移したものと伝えられます。軍政部が千葉県庁、片岡元代議士宅の二カ所を捜査したときに、同時に古荘宅をも捜査しまして、合計六十ドルの銀塊を押えたことは、今日大蔵省関係者の記憶に明らかであります。このダイヤが、昭和二十六年ごろからニューヨークで売り出され、それがアメリカに保管されているというフィリピン筋の見込みによって、大野・ガルシアの四億ドル案にまとまりかけていたこのフィリピン賠償というものが、これらの事件――これは、もとより日本が戦争中に犯した一つのあれでありますけれども――このことによって、だんだんと五億五千万ドルに譲歩しなければならなかったものであると私は見ておるが、高崎経企長官に、もし御存じならば御報告願いたいと思います。
高碕国務大臣 私は、全然今のお話しのことは存じません。初めてお聞きするわけであります。
今澄委員 私がおそれることは、こういつた経緯があって、フィリピンのエルサルデ財閥と日本の三井財閥との間にいろいろの人々があれして、これらの賠償の
実行が一部の特定な人の利益に帰せるということがあっては、国民に対して国会議員としてまことに申しわけがないと思います。この賠償を実行する政府として
は、それらの疑惑について、いかなる対策を持っておるかを経企長官に聞きたいと思います。
■塚本素山〜wiki
塚本素山(つかもと そざん、1907年(明治40年)9月1日 – 1982年(昭和57年)4月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。千葉県出身。陸軍士官学校卒業。本名は塚本清。
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1935年(昭和10年)、陸軍士官学校(少尉候補者第19期)を卒業する。
1945年(昭和20年)8月、陸軍大将の田中静壱の専属副官を務める中、終戦となる。
■田中静壱〜wiki
田中静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 – 1945年(昭和20年)8月24日)は日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位勲一等功三級。
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士官学校は今村均や本間雅晴と同期の第19期。1916年(大正5年)、陸軍大学校(第28期)を優等で卒業し、英国オックスフォード大学留学の恩典を与えられた。その後はメキシコ駐在武官、参謀本部欧米課班長を経て、1932年(昭和7年)からは2年間にわたって駐米陸軍武官としてワシントンD.C.に駐在するなど、知米派軍人としての道を歩む。かの地では当時米陸軍参謀総長に就任したばかりのマッカーサーとも親交があった。
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そして日米開戦後の1942年(昭和17年)8月、更迭された本間雅晴の後任としてフィリピン平定中の第14軍司令官に親補された。
終戦当時は東日本の本土防衛を担う東部軍管区司令官。米軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げていたが、皮肉にも叛乱鎮圧が田中の最後の任務となった。宮城事件(玉音放送も参照のこと)が起きると自ら皇居に乗り込んで幹部将校を説得し、混乱を収束させた。昭和天皇はその働きに対して同日の8月15日夕刻拝謁を賜ったが、それから9日後の8月24日、最後の反乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室で拳銃を用いて自殺した。