■第二次世界大戦下のスペイン
枢軸参加交渉
ドイツによるポーランド侵攻は、ポーランドと同じくカトリックであり、反ソであったスペインに衝撃を与えた。スペインは中立を宣言し、ソ連の東ポーランド占領は「ヨーロッパのアジア化」であると非難した。ソ連の西方進出を防ぐためとしてドイツと連合国に講和を呼びかけたが容れられなかった。
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枢軸支援
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ドイツのアプヴェーア(国防軍情報部)長官ヴィルヘルム・カナリスはかねてからスペインとの協力関係を築いており、1940年からはセラーノが主導するスペイン諜報部が在外公館から入手した情報はそのまま枢軸国に提供された。真珠湾攻撃後は日本もこのネットワークに参加し、日本側の出先組織は東機関と名付けられた。この諜報網は枢軸国に多くの情報を与える一方で、連合国側もその存在に気づいており、ミンスミート作戦などで逆用されることもあった。
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戦争後半期
日本の真珠湾攻撃はスペインでも熱狂的に取り上げられ、セラーノ外相は祝電を送った。
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一方で日本が樹立させたホセ・ラウレルのフィリピン第二共和国を承認はしなかったものの、外務省が独立の「祝電」を送った。
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1945年1月のマニラの戦いではスペイン人200人以上が死亡し、旧市街と領事館も破壊された。スペインでは激しい反日機運が盛り上がり、日本に対する「義勇軍」の結成や、対日宣戦布告すら検討された。4月12日にスペインと日本は断交したが、満州国および汪兆銘政権との国交は維持された。
■東機関
東機関(とうきかん)とは、太平洋戦争時、アメリカの戦争遂行能力や軍事作戦、国内世論等の情報収集を目的として大日本帝国(当時)外務省がスペインにて創設した情報収集組織である。
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1941年12月8日の真珠湾攻撃ののち、アメリカ大陸の在外公館を次々と閉鎖させられたことにより情報収集に著しい支障をきたした日本外務省は、親枢軸的なスペインを拠点にアメリカの情報を収集することを構想した。同年12月末の「東機関」創設には、当時の須磨弥吉郎駐スペイン公使、三浦文夫一等書記官らが深く関わったとされ、その組織はユダヤ系スペイン人アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコを中心に十数名によって構成されていた。ただし、末端の諜報員までを含めると、その数は数倍になるともいわれるが、正確な人数は把握されていない。
■ホセ・ラウレル
ホセ・ラウレル(José Paciano Laurel, 1891年3月9日 – 1959年11月6日)はフィリピン共和国の第3代大統領。当時は第二次共和国で、日本軍政下であった。アキノ政権の副大統領サルバドール・ラウレル (Salvador Laurel) の父。
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日本の敗戦が濃厚になると山下奉文大将の助言で1945年3月末、命からがらフィリピンを脱出し、台湾に向かう。台湾では当初、混ぜご飯に福神漬けという粗末な食事しか与えられなかった。その後、奈良ホテルで亡命生活を送る。1945年8月15日の日本の降伏後にマッカーサー元帥の命令により、戦犯指定により家族と横浜刑務所に二か月間、巣鴨拘置所に十か月間収監されていた。終戦2日後の8月17日に第二次共和国の解散を宣言した。
■参考記事
24-衆-予算委員会-16号参照