合気会

公益法人

(公財)合気会
東京都新宿区若松町17-18
1940年4月30日-設立

文字どおり、合気道の財団法人です。

■役員抜粋

理事長 植芝守央 合気道三代道主
国際合気道連盟 会長
(公財)五井平和財団 評議員
理事 赤沼二己男 (株)第一勧業銀行 尾久支店長
(株)第一勧業銀行 飯田橋支店長
(株)第一勧業銀行 常務取締役企画部長
東京リース(株)代表取締役
東京リース管財(株)代表取締役
(株)トータル保険サービス 代表取締役
共同印刷(株)補欠監査役
日新建物管理物件と第一勧銀支店参照
監事 貞國鎮
監事 八塚南海夫
元理事 海部俊樹 第76,77代内閣総理大臣
世界連邦運動協会 会長→丸幸ビル
(公財)地球環境戦略研究機関 顧問
元理事 綿貫民輔 (財)アジア福祉教育財団参照
元理事 亀井静香 元 国民新党代表
小野グループと政治献金参照

■初代道主
植芝盛平〜wikiより
出口王仁三郎との邂逅・大本入信
1919年(大正8年)36歳。父与六危篤の報に帰郷を決意、白滝の土地家屋など全財産を武田惣角に譲渡し妻子を連れ北海道を離れる。帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった
出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる。
この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、
一家を率い綾部に移住、大本に入信する。王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努めるが、同年8月長男武盛(3歳)9月次男国治(1歳)を病により相次いで亡くす。秋頃王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。
1921年(大正10年)38歳。2月に第一次大本教弾圧事件が起こるが、植芝塾は波及を免れる。6月、三男吉祥丸誕生。
1922
年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りしており、彼らも盛平の門人となっていた。同年春、綾部に惣角が妻子と共に訪れ、盛平は
海軍中将浅野正恭ら門下の軍人たちと共に指導を受ける。9月、目録「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられる。
この時から
王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武術」と称し、また武道としての精神的な裏付けを求め「言霊」の研究に没頭する。
同年、大本の食糧自給体制の責任者「農園世話係」に就任、開墾農作に従事しつつ武道修行に励む生活方式「武農一如」を実践する。

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