昭和通商

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昭和通商–wikiより
昭和通商の前身である泰平組合は、明治41年6月に三井物産大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立され、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合である。
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しかし大戦が終了すると同組合の輸出は伸び悩みはじめ、昭和14年4月には高田商会が抜け、航空機・装甲車輌などを製造していた三菱重工を傘下に持つ三菱商事が新たに加入して、昭和通商が設立された。
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昭和通商の設立
昭和通商は、1939年(昭和14年)に陸軍省軍事課長の
岩畔豪雄大佐の主導で設立され、業務上の指導・監督権や人事権を陸軍省が一手に握り、陸軍の施策に準じて商行為を行う半官半民的な商社であった。

その設立目的は「兵器工業の維持と健全な発達、陸軍所要の海外軍需資源の一部輸入、国産兵器の積極的海外輸出と、陸軍所要の外国製兵器の輸入など」とされ、表向きは民間の商社として活動を開始したが、その実態は駐在員(多くは予備役の軍人だった)が現地で情報収集など諜報を行ったり、朝鮮・満洲で生産された阿片を中国市場に持ち込み、里見らの宏済善堂を通じて換金し、戦争遂行に必要な戦略物資の調達にあたるなど、様々な活動を行っていた。

岩畔豪雄–wikiより
諜報謀略機関
軍人による経済面への強権発動の訓練を満州で積んだ岩畔は1934年(昭和9年)東京に呼びもどされ再度、整備局の課員になる。1936年(昭和11年)8月、二・二六事件の勃発により陸軍省兵務局課員へ異動、事件終息後の軍法会議を担当した。また外国大使館の盗聴や郵便検閲、偽札製造の研究など諜報活動に従事。同年「諜報、謀略の科学化」という意見書を参謀本部に提出。日本陸軍は情報に対する関心を著しく強くし、初めて秘密戦業務推進が命ぜられた。
1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進し、同年11月、防諜・謀略活動を目的として新設された参謀本部第8課へ異動。影佐禎昭大佐を課長とし、別名を謀略課と称した同課の主任として秘密裡に進められた汪兆銘樹立計画に関与。
同年、兵務課内に陸軍省・参謀本部内でさえ、存在を秘匿されたといわれる地下機関「秘匿名警務連絡班」を創設。班長秋草俊とし秘匿名を「
」と称しCIAのような機関を目標とした。

登戸研究所
なお、登戸研究所は1944年頃から米機の空襲が頻繁となったため、研究所の第1科、第2科は、長野県伊那地方に疎開。偽札を製造をしていた前述の第3科は福井県武生市に疎開した。
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昭和通商
同年4月、三井、三菱、
大倉財閥の出資で満州に軍需国策会社・昭和通商を設立。昭和通商は、商社として営業機構と外国からの情報収集を主とする特務任務のための調査部機構の二大機構に分けて組織されていた。このため、経済人はもちろん、軍人、役人、学者、ジャーナリスト、スポーツ選手ら多士済々な人物が所属、あるいは関与したエリート集団であった。昭和通商には堀三也、大岸頼好、竹内俊吉、五島徳次郎、関山義人、石田礼助らが在籍した他、岡正雄、川喜田二郎、今西錦司、児玉誉士夫、許斐氏利なども関わったとされる。

大倉財閥–wikiより
大倉喜八郎の長男である大倉喜七郎は、父の後を継いで、1922年、帝国ホテルの会長、1924年、大倉組頭取に就任した。戦後、公職追放を経て帝国ホテル社長への復帰を渇望したが、それがかなわないと見るや、1958年にホテルオークラを創設した。

岡正雄–wikiより
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年) – 1982年(昭和57年))は、日本の民族学者。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄

長野県松本市生まれ。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。卒論は「早期社会分化における呪的要素」。東京女子歯科医学専門学校のドイツ語教師を経て、1925年(大正14年)から柳田國男とともに民族学雑誌『民族』を共同編集し、岡書院から刊行した(~1929年)。1929年(昭和4年)、渋沢敬三の援助を得てオーストリアへ渡り、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで民族学を学ぶ。1933年(昭和8年)に同大学より博士号を授与される。

岡茂雄–wikiより
陸軍中央幼年学校から陸軍士官学校(28期)を経て陸軍中尉。
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鳥居龍蔵の『人類学上より見みたる北東アジア』(1924年刊)を手始めに、南方熊楠の『南方随筆』(1926年刊)、『続南方随筆』(1926年刊)。柳田國男の『雪國の春』(1928年刊)や八幡一郎の『南佐久郡の考古学調査』(1928年刊)など。梓書房名義の出版では、山階芳麿の『日本の鳥類と其生態』(1934年刊)[1]、京都帝国大学遠征隊報告『白頭山』(1934年刊)などがあり、民族学・考古学から山岳・自然関係の名著を、短期間ながら多数出版した。
雑誌類では、1925年(大正14)9月に、民族・民俗学の綜合隔月誌『民族』を創刊。現在も
日本野鳥の会の機関誌となっている雑誌『野鳥』も、中西悟堂らの懇請を入れる形で岡が梓書房から創刊したのが始まりとなる。

金田一京助の『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』Ⅰ・Ⅱも、柳田國男に頼まれた岡の協力と励ましにより、金田一が、関東大震災で焼失した欧文の学位論文を、邦文で新たに書き直したものである。出版の際には、岡の斡旋により、東洋文庫渋沢敬三からの経済的助成が金田一に贈られたりもした。

日本野鳥の会–wikiより
2009年現在の本部は東京都品川区西五反田3丁目9番23号
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歴代会長
中西悟堂 (1934年~)
山下静一 (1981年~)
黒田長久 (1990年~)
小杉隆 (2001年~)
柳生博 (2004年~)
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1994年に放送された三共胃腸薬のCMで「日本胃腸の会」というパロディが放映された。

黒田長久–wikiより
侯爵で鳥類学者だった黒田長禮の長男。母は閑院宮載仁親王第二女子茂子女王。夫人は侯爵醍醐忠重の娘・和子。黒田長政から数えて福岡黒田家15代目の当主である。今上天皇ははとこに当たる。同じ鳥類学者である山階芳麿は義理の従兄弟でもある。

今回は、この辺りで。

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