保岡興治〜wiki拾い読み

wiki拾い読み

保岡興治

選挙区:鹿児島県第1区

保岡 興治(やすおか おきはる、1939年(昭和14年)5月11日 – )は、日本の政治家、前衆議院議員(11期)。法務大臣(第69代、第81代)。弁護士。司法の畑を歩き続けてきた法務族議員のひとりである。

来歴
東京都に生まれた(中学の途中までは鹿児島市内で育つ)。父は衆議院議員の保岡武久。鹿児島大学教育学部附属中学校から転校して千代田区立麹町中学校、東京都立日比谷高等学校卒業(
高校の同期に政治家加藤紘一黒岩秩子らがいる)。
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1972年の第33回衆議院議員総選挙に奄美群島区から無所属で立候補し、当選(当選同期に小泉純一郎山崎拓石原慎太郎・村岡兼造・三塚博・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。当選後、自民党に追加公認され田中派に所属する。1976年にロッキード事件で田中角栄が通常逮捕されると、保岡は弁護士として田中弁護団の一員に加わった
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大平正芳内閣の国土政務次官、鈴木善幸内閣の大蔵政務次官や衆議院建設委員長などを歴任。田中派の分裂にあっては、当初、小沢一郎らから、創政会に勧誘されるが、不参加。竹下登率いる経世会ではなく、同郷の二階堂進のグループに参加し、1989年の自民党総裁選挙では二階堂グループの林義郎の選対責任者となった
1990年、第39回衆議院議員総選挙で、無所属の特定医療法人徳洲会理事長・徳田虎雄に敗れ、落選。選挙区の旧奄美群島区は、中選挙区制時代、唯一の小選挙区であったが、通称「保徳戦争」と呼ばれ、死人が出るとまで言われるほどの汚い選挙戦が行われる場所として知られていた。この時の選挙で二階堂グループは所属議員の落選・引退で大きく議席を減らして消滅、保岡は落選後に田中派の流れを汲む経世会へ移籍し、自民党政治改革本部の顧問として選挙制度改革に関与することになる。
1993年に行われた第40回衆議院議員総選挙に奄美群島区と統合された旧鹿児島1区から立候補し、当選(同区で日本新党新人川内博史や新生党元職長野祐也は落選)。国政に復帰した。当選後は小渕派に所属するが、1994年の羽田孜首相後の首班指名選挙では、自民党が推す村山富市社会党委員長ではなく、海部俊樹元首相に投票し、海部に従い離党した
海部を代表とする院内会派・自由改革連合を経て、1994年12月の
新進党結成に参加したが、翌1995年に新進党を離党し、自民党に復党する。1998年に山崎派の結成に参加。憲法改正が政治課題として浮上し、衆議院に「憲法調査会」が設置されると保岡は同調査会の幹事に就任する。
2000年、第2次森内閣に法務大臣として初入閣(政務次官は公明党上田勇)。法務大臣在任中に3人の死刑囚に対して死刑執行を命令した。加藤の乱では、閣僚として身動きの取れない中で、山崎拓や加藤紘一の行動を支持することを模索する。加藤らが本会議に出席して森内閣不信任案に賛成した場合、加藤派の森田一運輸大臣と共に、その場で閣僚の辞表を森喜朗首相に手渡して不信任案に賛成票を投じるため、辞表を胸に忍ばせて不信任案採決に臨んだ。しかし、採決前に加藤らが折れてしまったため、不信任案には反対票を投じることになった。

稲見友之
稲見 友之(いなみ ともゆき、1938年12月25日 – )は、日本の弁護士。東京弁護士会所属。平河総合法律事務所所長。世界基督教統一神霊協会(統一教会、統一協会)の顧問弁護士。ロッキード事件で逮捕・起訴された田中角栄の裁判で弁護団事務局長や主任弁護人を務めた。

ロッキード裁判
田中角栄が逮捕・起訴された後、田中派の2年生議員で中央大学の同級生だった
保岡興治に請われて訴訟対策を行い、弁護団の事務局長に就任した。1審で敗訴した際には、越山会の機関紙「月刊越山」に「人権無視 恐るべき偏向判決」との一文を寄せた。

嘱託尋問調書の証拠採用の違法性を主張した控訴審では主任弁護人を務め、石田省三郎、淡谷まり子、小野正典ら左翼系弁護士と共闘した。稲見自身もかつては反権力思想の持ち主だった。

■メモ
★広瀬大分県知事と下関
広瀬県知事の義兄→林義郎中曽根内閣の厚相)
俵田一族→宇部興産

林芳正(林義郎の子息)–wiki
村上ファンドの村上世彰は東京大学の同期で、麻雀仲間でもある。評論家の宮崎哲弥は友人。

「私物国家」広瀬隆著でも広瀬勝貞氏、林義郎氏ともに書かれています。

★保岡興治後援会連合会に献金

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奥野善彦弁護士
・(株)日本農業再生パートナーズ取締役相談役
・(公財)警察育英会評議員
・(株)整理回収機構代表取締役社長

■つぶやき
山本鎮彦・元警察育英会会長

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