【wiki拾い読み】牧田吉明

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牧田吉明(2015年8月29日 (土) 17:45 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

牧田吉明(まきた よしあき、1947年3月7日 – 2010年5月29日)は、日本の民族主義者。かつて「爆弾屋」の通称を持つアナーキスト、新左翼活動家として知られた。

経歴
のちに三菱重工業社長
として采配を振り牧田天皇と呼ばれた牧田與一郎の6人きょうだいの末子(4男)として静岡市に生まれる。……
1959年4月、新宿区立戸塚第二小学校を経て、
三菱財閥系列の成蹊中学校に入学。テニス部と生物部を経て登山部に入部。成蹊高等学校在学時代は学校に対して反抗的な態度を続けたため、同校卒業生中ただ一人成蹊大学への推薦を拒否され、1965年、一般入試で同大学政治経済学部と文学部に合格し、文学部文化学科に進む。入学と同時に三派系全学連の社会主義学生同盟(社学同)に参加。
……
1970年秋、「ステーション’70」が赤字により閉店したため、父親のつてで三菱グループのPR誌の製作を請負う広告会社を設立し社長となったが、
1974年9月、大麻所持ならびに吸引で逮捕、108日間拘留される。この間、同年10月、京都地方公安調査局爆破事件に絡む爆発物取締罰則違反でも逮捕され、懲役1年10月、執行猶予3年の有罪判決を受けて1975年に会社は解散となる。
……
1980年代以降は新右翼に接近。
野村秋介との交友も知られており、阿部勉牛嶋徳太朗鈴木邦男とも交流があった。
……
小樽での事業に失敗して離婚した後、2001年から札幌市琴似で居酒屋「KAZE」を経営したがやはり失敗、車上生活を経て
大本教に入信し、京都に移住したこともある。
……

ピース缶爆弾事件
……
その後、警視庁第8・第9機動隊宿舎爆破未遂事件やアメリカ文化センター爆破事件を含む一連の爆弾テロ事件の容疑者として、1973年3月、極左活動家の増淵利行ら18人が起訴されたが、公判継続中の1982年5月、牧田自ら「自分こそが真犯人」と名乗り出たため大騒ぎになった。この時、弁護団の中心人物として牧田に証言させたのが
仙谷由人であった。
……
家族・親族
母は岩崎小弥太の娘(庶子)で、箱根底倉温泉の老舗旅館「つたや」の経営者沢田鋓義の養女。小弥太は自分の娘の一人を與一郎に娶らしめたとき「浮気をしてもよいという条件でオレの娘を妻にせんか」と言ったとされる。母の養母、すなわち沢田の妻は上総飯野藩第10代藩主・保科正益の三女。従って三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥は吉明の母にとって実父の従兄かつ養母の義兄にあたり、元三菱銀行頭取・田実渉は吉明の母の従姉妹の夫という関係にあたる。従って牧田家は三菱の創業者一族・岩崎家及び三菱と縁の深い田実家と姻戚関係で結ばれている。

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