フリーメーソンの秘密より

フリーメイソン

●「フリーメーソンの秘密」(赤間剛著)より

日本の著名メーソン
鳩山一郎–1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号、以下同じである)、元首相、昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。

弘世源太郎–1961年4月10日入会、No.1。元日本生命常務、父・現氏が同社社長、妹の正子さんは旧皇族の久邇宮朝融王氏の子息、邦昭氏と結婚。財界の“名門”といえよう。

田中元彦–不明、No.11。前出の藤山愛一郎氏の実弟、日本NCRの顧問、菱和航空サービス(株)会長、日本アドレソグラフ・マルティグラフ(株)取締役。プリンストン大卒の知米派だった。

梁瀬長太郎–1950年4月19日入会、No.2。ヤナセ自動車の元社長、同社は日本初の自動車ディーラー、ヤナセ商会が前身で、世界の高級外車を輸入販売して有名。ちなみに、鹿島守之助(鹿島組会長)と親族。「守之助氏はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名です。カーレルギー伯やハンフリー副大統領(メーソン)、鳩山薫子ほかに創設した鹿島平和賞を贈呈しています。日本のフリーメーソンに入会を頼んだが、なぜか入られませんでした」(日本のグランド・マスターの話)という。

日本エーエム〜wiki

日本エーエムは、東京都に本社を置く印刷機材商社。

沿革
1957年 – 米国のアドレソグラフ・マルティグラフ社と藤山コンツェルンとの合弁会社として設立。当時の社名は日本アドレソグラフ・マルティグラフ
1958年 – 日本初の小型オフセット印刷機マルティ1250の国内販売開始
1979年 – 親会社の社名変更に伴い、日本エーエムに社名変更。
1982年 – 親会社が連邦倒産法第11章を申請。
1996年9月 – 発行済株式の50.86%を藤博(現:
カーチスホールディングス)が取得。
2000年9月1日 – デジ・ネットに商号変更。組織変更により新生日本エーエム設立。(印刷事業部門を独立・営業譲渡)
2000年12月26日
ジャック・ホールディングス(現:カーチスホールディングス)との合併により上場廃止。
2001年1月 – ジャック・ホールディングスと合併。
2006年 – 飲食ビジネスに参入。
2008年5月30日 – 韓国のファウテクノロジー(FAWOO Technology、コスダック上場 045890)と合弁会社日本ファウを設立。

■考察
藤山コンツェルンの藤山愛一郎を支持していたのは小沢一郎議員の父・小沢佐重喜議員。
小沢佐重喜議員は弁護士でもあり、鹿島建設の相談役。

小沢佐重喜〜wiki

後妻・みち(元千葉県会議員荒木儀助の四女)
後妻みちについて、奥野修司の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁によると、「みちは明治三十四年二月十五日に千葉県の元庄屋の娘として生まれている。実家はかなりの豪農で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの
鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。」という。
奥野修司の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』85頁によると、「このみちは明治三十四年に荒木儀助と妻かのの四女として
千葉県東葛飾郡風早村で生まれているが生家は“駅からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大地主だったようだ。

風早村〜wiki

風早村(かざはやむら)とは、千葉県東葛飾郡にかつて存在した村である。現在の千葉県柏市の南東部に位置している。 村の北部には手賀沼があり、西部には大津川が流れている。

ロト6第620回(2011年12月29日)ー1等ー4億円
柏沼南OSCチャンスセンター:千葉県柏市
風早1-1-1 ヤマダ電機柏沼南店前

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