矢次一夫〜wiki拾い読み

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矢次一夫
矢次一夫(やつぎ かずお、1899年7月5日 – 1983年3月22日)は日本の浪人政治家。佐賀県生まれ。
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1934年には官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて
国策研究会を組織。1936年の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年に国策研究会を再組織し、戦時国策立案に従事。
田中隆吉によれば、矢次は大政翼賛会を操っていた人物として名指しされている。
終戦後は公職追放されたが、サンフランシスコ講和条約発効後に1953年に国策研究会を再建。1956年に実業家・評論家などを代表する形で、
韓国・台湾の政財界とのパイプ役を務め、岸信介の特使として韓国や台湾を訪問した。

国策研究会
公益財団法人国策研究会(こくさくけんきゅうかい、英語: Research Institute of National Policy)は、日本の民間研究団体。1933年に国策研究同志会として発足し、1937年に国策研究会と改称、1945年3月に休会した。第二次世界大戦後は、主権回復後の1953年6月に再発足し、1957年に財団法人となった後、2013年に公益財団法人へ移行した。
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戦後の国策研究会
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1957年、
第1次岸内閣の下で国策研究会は財団法人認可を受け、主宰者として活動した矢次は、政界の舞台裏で、特に韓国や台湾との水面下の外交交渉に影響力をもつようになり、国策研究会も日華協力委員会の設立や、水面下の日韓国交回復交渉に関わった。

■(公財)国策研究会
関西支局:大阪市東淀川区東中島 1-19-4 (株)ライフコーポレーション

■「下山事件 最後の証言」柴田哲孝著より亜細亜産業・矢板玄の証言
–佐藤栄作は、兄岸信介の件で来たのではないか。岸信介を巣鴨プリズンから出したのは、矢板さんだと聞いているが
 「そうだ。そんなことがあったな。だけど、岸を助けたのがおれだというのはちょっと大袈裟だ。確かに佐藤が相談に来たことはあるし、ウィロビーに口は利いた。岸は役に立つ男だから、殺すなとね。しかし、本当に岸を助けたのは
白洲次郎矢次一夫、後はカーン(ハリー・F・カーン。当時ニューズウイークの記者。アメリカのジャパン・ロビーの中心人物)だよ。アメリカ側だって最初から岸を殺す気はなかったけどな」

どこへ佐藤栄作が来たかといえば→ライカビル

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