シャルル・ド・モンブラン〜wiki拾い読み

wiki拾い読み

シャルル・ド・モンブラン(ウィキペディア日本語版)

シャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン、モンブラン伯爵にして、インゲルムンステル男爵( Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, Baron d’Ingelmunster、1833年5月11日 – 1894年1月22日)は、フランス/ベルギーの貴族、実業家、外交官、日本のお雇い外国人。日本では「白山」(はくざんはく、ペーサンはく、モンブラン=白い山の伯爵から)の名で知られた。
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薩摩藩との接触とパリ万博
同じ頃、薩摩藩の密航留学生が新納久脩・五代友厚・松木弘安らに伴われ、ロンドンに派遣されていた。幕府使節との接触が不調に終わったモンブランは、斎藤を伴ってイギリスへ渡り、薩摩藩留学団に接触し、その世話役を買って出た。さらに新納・
五代に貿易商社設立の話を持ちかけている。富国強兵・殖産興業を目指していた薩摩藩はこの申し入れを喜び、早速予備交渉を行った。五代らが各国の視察のため、大陸に渡った際には、モンブラン邸も訪れ、ともに狩りなどを楽しんでいる。慶応元年8月25日(1865年10月15日)にはブリュッセルにおいてモンブランと新納・五代との間で12箇条からなる貿易商社設立の契約書が交換された。その直後、モンブランはパリで開催された地理学協会で、「日本は天皇をいただく諸侯連合で、諸国が幕府と条約を結んだのはまちがいだ」というような、薩摩藩の主張にそった発表をしている。翌年には輸入品に関する契約が更新され、薩摩藩主島津茂久からの商社設立内約の礼状がモンブランに贈られている。

フリーメーソン日本史より

【日本の著名メーソンその1、最初期】
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その他、フランス人でベルギーのメーソンだった
シャルル・ド・モンブランは、薩摩藩五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立しているほどだ。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。プロシア(独逸)のメーソン、エドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助した。そして戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソン、ブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗したが、遂に敗れる。ここに戊辰戦争は終結を迎えるのだが、いってみれば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンの代理戦争であった。どっちに転んでいいように、メーソン特有の”両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めた。

五代友厚(ウィキペディア日本語版)

五代友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) – 明治18年(1885年)9月25日)は、日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。大坂造幣寮(後の造幣局)の誘致、堂島米会所の復興、大阪株式取引所(後の大阪証券取引所)および大阪商法会議所(後の大阪商工会議所)の設立などを行って、大いにその手腕を発揮し、もって関西経済界発展の礎を築いた。このため東の渋沢栄一、西の五代友厚と並び称される

年譜・功績
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明治11年(1878年) 大阪株式取引所(現・
大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭に就任する。
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明治17年(1884年) 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)、大阪堺鉄道(
南海鉄道)を設立する。大阪北中之島1丁目26番地に初めて自邸を新築する。

大阪証券取引所ロケーション

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