【wiki拾い読み】興亜観音

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興亜観音(2016年4月22日 (金) 14:06 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

興亜観音(こうあかんのん)は静岡県熱海市伊豆山にある観音像。また、同観音像を祀る宗教法人礼拝山興亜観音(らいはいざんこうあかんのん。以下「興亜観音」という)。
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沿革
1937年(昭和12年)7月に勃発した支那事変における
上海派遣軍司令官であった松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に聖観音を建立した。観音像は松井石根が転戦した南京周辺地等の戦場の土を材料として作られた。

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現在の興亜観音は、上記の支那事変全戦没者の他、特に
所謂「A級戦犯」として処刑された七名の遺骨が埋葬されていることで知られている。その訳は次のとおりである。1948年(昭和23年)12月23日(今上天皇、当時皇太子の誕生日)、極東国際軍事裁判(東京裁判)においていわゆるA級戦犯として処刑された松井石根、東條英機等七人は、横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、当時の飛田美善火葬場長と小磯国昭の弁護人三文字正平らにより密かに骨壷一杯分が集められ、翌年5月3日、松井大将ゆかりの興亜観音に持ち込まれた。当時の住職、伊丹忍礼師(法華宗陣門流、僧正)は即座に七人の遺骨灰と直感し、時期が来るまでとこれを匿い、ようやく1959年(昭和34年)4月19日、吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。なお愛知県幡豆郡(現西尾市)三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、1960年(昭和35年)に興亜観音の七士遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬したものである。現在はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯の刑死者901柱、収容中に病死・自決・事故死・死因不明等で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせた1,068柱の供養碑(大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑)、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて同戦争の全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。
平成10年より、伊丹靖明(旧称早川靖彦。「興亜観音を守る会」と契約し、興亜観音の境内整備工事を請け負っていた建築会社社長)が忍礼師長女前住職妙徳尼の養子となり寺務運営をしている。現在は妙徳の妹妙浄が靖明の補佐を得て、住職を務めている。興亜観音にはお墓や檀家と云うものが無く、広く一般からの支援に頼っている。

護持支援団体は1942年(昭和17年)に設立され、主に地元熱海の信者達により守られてきた「興亜観音奉賛会」(初代総裁松井石根)である。尚1994年(平成6年)設立された「
興亜観音を守る会」は、陸軍士官学校58期生を中心とする有志で運営されていたが、会員の高齢化等により、興亜観音を守る会は解散に追い込まれた。なお興亜観音の金銭不正疑惑等は、平成26年2月、静岡地方検察庁の捜査により事実無根であるとの結論が出ている。

陸軍士官学校58期卒

怨親平等 殉国忌 慰霊祭へのお誘い
2011年12月13日-日本会議東京都中野支部

上海派遣軍司令官 松井石根大将は昭和15年 紀元2600年の記念に際し、支那事変にて戦死された日支両国の将兵を共々に「怨親平等」に弔うため、戦地の土を以てする興亜観音を発願、建立されました。

この観音様には極東軍事法廷によってA級戦犯とされ、その名の下に昭和23年12月23日に処刑された松井大将を含む 殉国七烈士が眠っておられ、又、フィリピン派遣総司令官本間雅晴中将等、BC級戦犯の汚名の下、刑死された1,068柱の御霊も祀られて居ります。

日中永遠の、そして世界の平和を願い、殉国七烈士の御霊と共に刑死された1,068柱の御霊の安らかならんことを願い、「怨親平等 殉国忌」の慰霊祭を企画しました。

志ある方々の御参集賜れば幸いです

興亜観音奉賛会会員
怨親平等 殉国忌 発願有志
代表 弁護士
内野経一郎
日本会議 中野支部長

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