コスモ・エイティ-碓井優

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碓井優–wikiより

碓井 優(うすい ゆたか、1935年5月7日 – )は、日本の実業家。広島県呉市長迫町出身。石川島播磨重工業(IHI)のコンピュータ外販部門のリーダーだった1981年、79人の仲間を率いて同社を集団脱藩(退社)。『コスモ・エイティ』を興して大きな注目を浴び、日本のベンチャー草分けとなった。

1963年それまでの資材部からまったく無縁の電算(コンピュータ)部門、新設された電算化企画室に配属される。スタッフは全部で三人だった。当時のIHI常務で呉造船所の非常勤役員だった真藤恒が「時期尚早」と横槍を入れ縮小したものだった。このため「越権行為では」と真藤に猛烈な敵愾心を燃やした。1968年、呉造船所はIHIに吸収合併される。コンピュータ技術者は全員兵庫県相生市の相生工場に集められた。前社長・土光敏夫の関係から新規導入される電算機の機種は東芝に内定していたが、IBM製の方が優れていると副社長となっていた真藤恒に重大会議で食ってかかりこれを認めさせた。これを機に真藤に私淑、以降「オヤジ」と慕う。この後コンピュータ一ひとすじで社内に確固たる地歩を築いていく。1977年、IHI東京本社電算事業本部電算事業開発センター所長に就任。コンピュータ・ソフト外販事業を軌道に乗せ、その後の組織改革で情報システム室電算事業開発部事業開発センター所長となった。
……
『コスモ・エイティ』は、IHI時代からの顧客であるソニー、日本交通公社、ブリヂストン農業協同組合などのシステム開発を引き継いだが、それだけに留まらず高度情報通信社会を切り拓く先駆者となって21世紀への橋渡し役となる事を大きな目標とした。実際、オリムピック釣具やマミヤ光機(現マミヤ・オーピー)の経営権を取得したり、NTTのINS(後のISDN)実験に参加しニューメディア事業に進出。1983年には三菱商事日本IBMと合弁事業を興し「エビがタイを釣った」と話題を呼んだ。1989年にはリクルート事件の渦中にあった真藤を碓井は個人で擁護し1500万の保釈金も出した

1990年会長に退き翌1991年退社。1992年、碓井は株売買益7億円の脱税で告発された。また『コスモ・エイティ』も1991年、セコムグループ傘下に加わり1993年、セコム情報システム(現セコムトラストシステムズ)と合併。社名の通り80年代を駆け抜け約10年の激動の歴史に幕を下ろした。

なおこれら石川島播磨重工業からの脱藩までの経緯は、高杉良の小説『大脱走~スピンアウト~』で詳しく描かれている。

真藤恒–wikiより

真藤 恒(しんとう ひさし、1910年7月2日 – 2003年1月26日)は、日本の実業家。福岡県久留米市出身。石川島播磨重工業(現IHI) の社長、電電公社の最終代総裁、NTT初代社長・会長を務めた。また、ドクター合理化の異名を取った。息子に三井物産情報産業本部メディア事業部長、スピードネット社長、ソフトバンクBB常務を歴任し、現ソフトバンクIDC社長の真藤豊がいる。

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■つぶやき
真藤(眞藤)恒、熊取谷稔、コスモ

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