テレビマンユニオン〜wiki連鎖

企業データ

(株)テレビマンユニオン
東京都渋谷区神宮前5-53-67 コスモス青山south棟

テレビマンユニオン–wiki
株式会社テレビマンユニオンは、日本のテレビ番組制作会社である。
主要株主:東京放送ホールディングス、従業員持株会、東通、IMAGICA、仕事、東京コンサーツ、萩本欽一

歴史・概要
1970年2月25日、東京放送(現・東京放送ホールディングス)を退職したディレクターが中心となって設立した日本で最初の独立系制作プロダクションである。技術分室は東京都港区赤坂6-4-2 赤坂MSビルディング。
設立の背景には、1968年にTBSのニュース番組『JNNニュースコープ』のベトナム戦争報道を巡り、担当したスタッフが現場から外されたことに対して、労働組合(ユニオン)員の報道局員がストライキをうった労働争議があった。この流れのなかで報道部門の萩元晴彦村木良彦、ドラマ部門の今野勉らディレクターが、1969年にTBSを退社。翌年のテレビマンユニオン設立に繋がった。

「下請け」からの脱却
制作会社=テレビ局の下請け」という構図から脱却し、独立した創造集団を目指してきたのも同社の特徴である。

3時間ドラマ『海は甦える』の制作においては、放送局のTBSではなく広告主である日立製作所へ企画を持ち込んだ。そして日立を直接スポンサーとして迎えた後に、TBSへ放送を持ちかけている。同じような手法で番組が立ち上がった『日立 世界・ふしぎ発見!』は、日立(グループ)の単独提供として20年以上続く長寿番組となっている。
……
ちなみに、主要株主として設立以来欽ちゃんことタレントの萩本欽一が名を連ね、かつては映画監督の伊丹十三も株主のひとりだった。

萩元晴彦(創設メンバー)–wiki
萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年3月7日 – 2001年9月4日)は、日本のテレビ制作者・音楽プロデューサーである。

テレビ草創期の名プロデューサー
長野県飯田市出身。1953年に早稲田大学文学部露文科卒業後、ラジオ東京(現 TBSテレビ)に入社。「神これを癒し給う・心臓外科手術の記録」「三元宇宙中継/東京・ベルリン・ローマ 今語ろう世界の若者たち」など数々の作品を制作後、1970年にTBSの仲間25人と共に同社を退社。日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオンを創立し、初代社長に就任する。

世界的指揮者・小澤征爾との友情
指揮者・小澤征爾とはTBS時代からの親友。かつて
小澤がNHK交響楽団と対立し、日本の音楽界から孤立したいわゆる「小澤事件」の際、萩元は小澤に日本武道館で第九を指揮する番組企画を持ちかけた。これが、初期TBSの名ドキュメンタリーと言われる「現代の主役・小澤征爾”第九”を揮る」である。
……
1997年には長野オリンピックにおける開会式・閉会式の総合プロデューサーを務めたが、この際にも萩元は親友の小澤に協力を依頼。世界各地をテレビ中継でつなぎ、小澤指揮のもと同時に第九を合唱するという企画を実現させた。

その他
旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)時代には、野球部のエースとして甲子園(第29回全国中等学校優勝野球大会)に出場している。

長野県松本深志高等学校–wiki
出身者抜粋
旧制松本中学校以前卒

藤森昭一 – 官僚、元宮内庁長官、日本赤十字社第13代社長
五島慶太 – 東京急行電鉄創業者
萩元晴彦 – テレビ・プロデューサー、テレビマンユニオン元会長、甲子園出場者

松本深志高等学校卒
田中康夫 – 長野県知事(2000年 – 2006年)、参議院議員(2007年 – 2009年)、衆議院議員(2009年 – )、新党日本代表、作家
熊谷信太郎 – 弁護士

松本高等学校 (旧制)–wiki
1919年の開校当初は、県立松本中学(長野県松本深志高等学校の前身)に間借りする形で授業が行われたが、翌20年、新校舎が松本市内・松本駅の東方約1400mに位置する県(あがた)地区に竣工して移転した。

著名な出身者抜粋
藤森昭一 – 日本赤十字社社長、宮内庁長官
宮下創平 – 防衛庁長官、環境庁長官、厚生大臣
山本幸雄 – 自治大臣、国家公安委員会委員長
井上薫 – 第一勧業銀行初代会長
中條高徳 – アサヒビール会長
野々山広三郎 – サッポロビール社長
堀田庄三 – 住友銀行頭取、”住銀中興の祖”
吉川清一 – 清水建設社長
吉野平八郎 – 東武百貨店社長
北杜夫 – 小説家

歴史的建造物としての旧制松本高校
OBである作家北杜夫の小説「どくとるマンボウ青春記」や、テレビアニメ「おねがい☆ティーチャー」、「おねがい☆ツインズ」、2010年11月6日公開「マリア様がみてる」実写劇場版の舞台として登場、2011年4 – 9月のNHK朝の連続テレビ小説おひさまの舞台としても知られている。

村木良彦–wiki
村木 良彦(むらき よしひこ、1935年11月15日 – 2008年1月21日)は、宮城県仙台市出身のメディアプロデューサー。東京大学文学部卒業。

人物
1959年、ラジオ東京(現・東京放送ホールディングス)に入社。同期スタッフに実相寺昭雄ら。テレビ美術部にて研修を受ける
最初の仕事は
美智子皇太子妃ご成婚パレードの下働き。
……
1968年非現場への配転を受けるが、これを萩元晴彦らとともに拒否し、その後のTBS成田事件や田英夫のキャスター解任などの諸問題に繋がる「TBS闘争」のきっかけになる。
1969年、非現場での空白に終止符を打つためにTBS退社を決意。吉川正澄らと相談し集団で退社。その後TBS本社と折衝を繰り返し、独立しプロダクション「テレビマンユニオン」を1970年2月設立。

……
1994年東京メトロポリタンテレビジョンゼネラルプロデューサー。番組の編成・製作技術やビデオジャーナリストの育成など、開局へ向けた様々な取り組みを進めた。

■考察
現在の所在地は、(株)バルスと同じビル。

(株)バルスの社外役員抜粋
水野誠一取締役-元(株)西武百貨店代表取締役社長、元・新党さきがけ政策調査会長、オリコン(株)取締役(現任)、森ビル(株)特別顧問
水野成夫フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長の長男

水野誠一–wiki
水野 誠一(みずの せいいち、1946年7月8日 – )は日本の実業家、政治家。株式会社インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア代表取締役。
株式会社西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政策調査会長などを歴任した。

開成高校及び慶應義塾大学経済学部卒業後、西武百貨店に入社。1990年社長に就任、1994年退任、非常勤取締役となる。
1995年第17回参議院議員通常選挙に、学習院初等科時代の
同級生であった鳩山由紀夫が代表幹事を務める新党さきがけから比例区名簿第1位で初出馬し、初当選する(同年高知県知事として2度目の当選果たした橋本大二郎も小学校の際の同級生)。
……
西武百貨店社長を退任してからは、ヴァージンシネマズの日本法人や森ビル、オリコンなど多くの企業の役職に就いた。ネットスケープコミュニケーションズの日本法人で顧問を務めた経験があり、自身のウェブサイト「MIZUNO’S SCAPE」ではNetscapeシリーズのロゴを模したマークをシンボルとしている。

父は文化放送、フジテレビジョン、産業経済新聞社で社長を務めた水野成夫。妻は女優の木内みどり。

水野成夫–wiki
水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 – 1972年5月4日)は、日本の実業家。「財界四天王」の一人。「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長。元経済団体連合会理事。

翻訳家
翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があった。水野翻訳によるフランスの著『神々は渇く』は名訳として名高くベストセラーとなった。その他、『舞姫タイス』、『現代史』などフランスの著作約20作品、アンドレ・モーロア著『英国史』なども翻訳している。翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎、
尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つに至った。
1938年憲兵隊に逮捕されるが、翌年保釈される。

財界人
1938年、同じく転向者で、その後も水野の片腕として行動を共にする南喜一が米糠を媒体に使い、新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込む。陸軍軍事課長・岩畔豪雄は、国策としてパルプ自給をはかるという計画を持っていたため1938年、日清紡績社長・宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた後、若い南と水野を見込み、元共産党員では、という周囲の反対をはねつけ1940年、二人に国策パルプ工業の全額出資で別会社・大日本再生製紙を作らせた。南と水野を最初に見出したのは岩畔である。大日本再生製紙の実務は、この二人と篠田弘作を加えた三名で主に行う。鹿内信隆はこの時の陸軍の担当事務官(需品本廠監督官)。太平洋戦争開戦後に岩畔がインド独立工作に関わるため、水野は岩畔に招かれ同工作に関与した。また
大日本再生製紙設立時に宮島清次郎と師弟関係になったことで、戦後に政財界に強い影響力を持つことになる

その他
西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政務調査会長を務め、現在インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア社長の水野誠一は長男。

※岩畔豪雄→昭和通商参照

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