登戸研究所から考える戦争と平和

読んだ本から

●「登戸研究所から考える戦争と平和」山田朗/渡辺賢二/齋藤一晴著より

敗戦後、陸軍登戸研究所においては、疎開先の長野県駒ヶ根と元来の施設であった登戸(生田)において、製造した兵器や関係文書の徹底した破壊・焼却が行われたが、生田地区の登戸研究所の建物群は、戦災も受けず、破壊もされないままに、戦後は慶應義塾大学北里研究所巴川製紙などが使用していた。

 参謀本部第七課(支那課)は早くから戦争経済に関心を持ち、偽造紙幣工作も一つの方策と考えていたが、実際に着手したのは1938年10月に参謀本部第八課(謀略課)が指導してからであった。
この課の初期の陣容は以下の通り。

課長 大佐 影佐禎昭
課長 中佐 唐川安夫
    中佐 
岩畔豪雄
    中佐 臼井茂樹

 登戸研究所は、1944年9月にアメリカ軍の艦載機による機銃掃射を受けるなど、研究を続けることが困難となり分散疎開することとなる。1944年末から翌45年4月にかけて、本部と第二科、第四科は長野県の上伊那に、第一科は同県の北安曇郡兵庫県に移転した。第三科は福井県武生に疎開している。
 本部は
伊那郡宮田村の真慶寺に置かれ、周辺の小学校などを接収して研究や実験を続けようとした。

影佐禎昭〜wiki

広島県沼隈郡柳津村(現・福山市柳津町)の広島浅野藩士の家系に生まれる。小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年(大正3年)、陸軍士官学校を卒業(26期)。1923年(大正12年)、陸軍大学校卒業(35期)。大尉時代の1925年(大正14年)4月から1928年(昭和3年)3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。1937年(昭和12年)に大佐昇進。同年陸軍参謀本部支那課長、第8課(謀略課)初代課長、軍務課長を歴任し日中戦争初期の戦争指導に当たった。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても知られ、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を挙げた。

娘は陸軍少佐時乗武雄、谷垣専一元文部大臣に嫁ぐ。谷垣禎一現自由民主党総裁は孫。名前の一字は、影佐の名からとったもの。

岩畔豪雄昭和通商参照

■考察
何故か現在の財界で蠢く裏の動きに妙に絡んでくるキーワードが多いです。
特に上伊那周辺を本拠地もしくは重点拠点としている企業は要マークのようです。
登戸研究所では牛疫ウィルスの研究もしていたらしいです。

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