「兜町コンフィデンシャル 株式市場の裏側で何が起きているのか」髙橋篤史著
29Pより 「データファイル」の看板を揚げていた中江の事務所は、「アジア・インベストメント・マネージメント」と名前を変え、96年4月には赤坂にある安東ビルの五階にところを移した。ただ、中江は表には名前を出さない。役員には、かつてレンタルレコード店チェーン「黎紅堂」を経営していた大浦清一など知り合いの人物をあてていた。 安東ビルを所有するのは在日韓国人が経営する「安東商店」という不動産会社だった。バブル期に都内各地で土地を買いあさっただけでなく、ピカソの名画「軽業師と若い道化師」を高値で落札するなど、借金をテコに業容を急拡大させたオーナー会社だ。しかし、同じ時期の急成長企業がそうであったように、バブルが崩壊するととたんに経営難に陥った。93年9月には社長も急死して、あとに残された未亡人は途方に暮れるしかなかった。弁護士の紹介で債務整理請け負い人として不動産ブローカーが乗り込んできたが、あっという間に経営を乗っ取られてしまった。 安東商店の経営はさらに混迷を深めた。イトマン事件で保釈中だった許永中の一派が95年末に経営介入し、不動産ブローカー派とのあいだで睨み合いが始まったのである。安東ビルには得体の知れない会社が次々とテナントとして入り込んだ。全面ガラス張りで上部を斜めに切り落としたデザインの安東ビルは、その異容とともに都内では有名な訳あり物件として知られるようになった。中江が事務所を移したのは、ちょうどそうした時期にあたる。 最盛期、中江の事務所には四十人ほどの常駐者がいたという。出入りする人物のなかには元衆議院議員の浜田幸一や元シンガポール大使の三宅和助らの顔もあった。 |
※中江=中江滋樹
■考察
アジア・インベストメント・マネージメントはその後、相互永田町ビルへ移転。
三宅和助→日本カンボディア文化経済交流協会 会長、娘は三宅雪子元議員
安東商店人脈→(NPO)日本空手松涛連盟参照