【考察】アイゼンベルグ、渋沢栄一、永野家

歴史考察

アイゼンベルグ商会

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ショール・アイゼンベルグの妻は永野重雄家の娘(長女)の可能性。
では、1940年頃に結婚したのはいかなる縁なのか?
この事を考察するには、永野重雄の長兄・永野護について調べてみる必要があります。

永野家

永野家(広島県)(閨閥学)

永野重雄ー政界財界官界に張り巡らされた華麗なる閨閥集団ー (近代名士家系大観)

永野護(2016年1月5日 (火) 13:17 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

永野護(ながの まもる、1890年9月5日 – 1970年1月3日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員、参議院議員。島根県濱田市生まれ。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。
……
護の東大の親友が渋澤榮一の子息だったため、渋澤は護の苦境を知り、息子の勉強相手という名目で月額50円の謝礼を出した(2010年代前半の貨幣価値では約40 – 50万円に相当)。護はそれを郷里に仕送りし、弟妹の養育費に充てた。弟5人は全員大学に進学している。東大法学部を、後に最高裁判所長官を務める田中耕太郎に次ぐ二番で卒業。就職先には事欠かない立場であったが、渋澤の秘書・顧問弁護士となり、後半生を渋澤の番頭格として尽くした
……
戦後、出所後の
岸信介を会長、社長を足立正、取締役に永野藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役・瀬越憲作とする東洋パルプを設立。広島銀行をバックに広島県呉市に工場を建設するが、うまくいかず王子製紙に売却した。1956年、広島県選挙区から参議院議員に当選。同年、対フィリピン賠償交渉の全権委員を務めた

つまり、永野家は渋沢栄一と非常に強力な繋がりがあったのです。

渋沢家

ウィキペディアにある「護の東大の親友」というのはおそらく、渋沢正雄でしょう。
澁澤正雄 ー旧財閥、澁澤一族ー (近代名士家系大観)
年齢から考えると、永野護が東大生だったのは、1910年前後。
渋沢正雄の弟達の家庭教師みたいなものをしていたのでしょう。
アイゼンベルグと永野重雄の娘の結婚はここから30年後になります。

渋沢栄一は永野家を後継として育て、永野家兄弟によりハココネが引き継がれたのです。

そして、渋沢正雄の会社でもある日本製鐵で永野重雄を育てた人物といえば、

三鬼隆です。

三鬼隆

三鬼隆(2016年8月18日 (木) 06:56 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

三鬼隆(みき たかし、1892年1月14日 – 1952年4月9日)は、日本製鐵・八幡製鐵(現・新日鐵住金)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。岩手県花巻市出身。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。出川哲朗の大伯父にあたる。
……
1952年(昭和27年)4月9日、
日航機もく星号墜落事故で遭難死した。
……
人物
……
日本製鐵社長時代の直属の部下・永野重雄を育てたことが大きな功績として挙げられる。

【wiki拾い読み】三鬼隆
日本製鐵関連会社を通じて、その三鬼隆と親しかったのが塚本素山です。
【財宝史観】三鬼氏と塚本素山氏

考察

フィリピン、航空機事故による死亡という要素は興味深いところ。
日本製鐵と王子製紙は複雑な沿革がありますが、日本近代史を紐解く上で避けられない会社です。


塚本素山ビル

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